今日からこの本を読みはじめました。
早く読みたくて発売日まで待てなくて、先行発売の書店さんから取り寄せました。
メモをしながら読み進めているので(まだ読み途中です)、ドキュメンタリー形式でお送りしたいと思います。
交際・結婚していたらセックスするのは当たり前?
「男らしく」あるために、男がセックスを主導しなければというプレッシャー。
恋愛と友情を区別するのはセックスなのか。
同性同士の恋愛ではいつもセックスが中心にされる。
フェミニストはいつだって性的に奔放? 「性的に抑圧されているムスリム女性」「性に関心のない障害者」「おしとやかなアジア人女性」というステレオタイプとアセクシュアルの狭間で葛藤。恋愛、障害、フェミニズム、男らしさ、アイデンティティ、人種──
ロマンティック・アセクシュアルの当事者である著者が、「他者に性的に惹かれない」というアセクシュアルの視点から、私たちの常識を揺さぶる。
著者の経験と100人のインタビューにもとづく唯一無二のルポエッセイ。
そもそもこの本をなんで読もうと思ったのかは、自分がアセクシュアルではないかと疑ったからだ。
アセクシュアルの人とはasexuality.orgによると、
「性的惹かれを経験しない人」である。(16ページ)
あたまの3文字を取ってスペルを換えてエース(ACE)。
でも少し読み進めて、わたしは「性的に意欲のないアローの女性」なのかな?と思いはじめたが、
いや、なんか違うぞ。
下記。
性的惹かれとは、身体的な理由で特定の人とセックスをしようとする欲望だ。性的惹かれは刹那的で意思によらないものでありうる。高められた意識とか、精神的な欠乏感と結びついた身体的な覚醒とかだ。(50ページ)
エースはそれでも人を美しいと思ったり、リビドーを持ったり、マスターベーションしたり、ポルノを探したりすることもありうる。エースはセックスを楽しむことも、ヘンタイなことを好むことも、あらゆる類いの関係を持つこともありうる。(50ページ)
!!!???
まだこんがらがってる。混乱してる。でもなんで混乱するのかわかってきた。
二項対立で捉えようとしてるからだ。
エースとアローのように。
性的惹かれは性欲動ではありません。(52ページ)
リビドーが特定の人を対象にしているわけではないんだろうから(55ページ)
「わたしの脳がエースなんだ」(55ページ)
なんか複雑なのね。ここでもきっと言語化するとわかりやすくなると思ったものが逆に逃げていってしまうのね。
私たちはセクシュアリティを生活の中心に置きはしない。(73ページ)
↑
これは異性に「性的に惹かれない」からだよね?
強制的性愛と強制的異性愛の幻想を教え込まれている社会からエースは蔑視されている。
なぜならセックスは資本主義社会ではお金になるから。
目に見える消費の一形態になる。
エースは服従しないし、だからこそ、退けられ、私たちの経験はうつだとか幻覚だとか子供じみた無知だとか言われ、(中略)人間の形に作られているけれど、誤った配線になっていて、何かを失っている。よい人生の根本をなす何か、を。(88ページ)
主にキリスト教的ピューリタニズムの社会で見られる反応っぽい。
だからエースの男性は(ゲイの男性も、トランスジェンダーの方とか)プレッシャーすごそう…。
世俗的な「セックスがお前をクールにする」というメッセージのせいで。
インセル=不本意の禁欲者。
彼らは、自分たちとセックスしてくれないがために女性に腹を立てる、ミソジニー的でたいてい異性愛の男性、
という人たちもいるのか。。。
待って、今まで当たり前だと思っていた社会の価値観や道徳が全部刷り込み?というか教え込みであると思ってしまったら、たぶん2000年以上そうやって人間社会が回ってきたし、律法?法律とかも出来てきたのでは?と思うのだけど、一度壊したいの?なにを目指しているのかな?アセクシュアルの方は。
ただ単にセクシュアリティの問題の話ではなくて、とんでもなく裾野の広い問題になりそうな気がする。
と、ここまでが102ページまでを読んだ感想です。
続きます。