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140文字以上の主に本についてのつぶやき

『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』アンジェラ・チェン その3

今日は203ページから読みます。

moyoco.hatenablog.com

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エース・コミュニティの夢は、共通の経験のある人々を集め、私たちがお互いを見つけたり、リソースを作ったり、大丈夫だと感じあったりするのを手助けすることだった。(220ページ)

問うことはエネルギーを消耗するし、無駄だ。経験はのちのち勝手に変化するかもしれないし、しないかもしれない。ーーーそれゆえ、ある程度の努力をしたら、こういった作業はもはや助けにはならない。より重要になるのは受け入れることだ。(221ページ)

すべてのエースが(エースの)コミュニティへと歓迎されるべきだ。(222ページ)

ここでは障害のある人も含む。
なぜなら障害者もエースでありうるし、エースの人も障害者でありうるから。
性にはバリエーションがあるから。

それぞれの人が、自らは何者か、何を望み、そういったことすべてがいかに変わりうるのか、探求すべきだ。そのことはエースと自認するする人々にとっても当てはまる。エースだと自認することが自分の役に立たないのなら、そうしない自由があるべきだ。エースですありながら依然としてセックスに好奇心を持つ自由も、エースだと自認してから心変わりする自由もうあるべきだ。(222ページ)

探求は、エースの完全な社会的受け入れとペアになっていなければ、不毛なものだ。あらゆるタイプの人々がエースになりうると、また、アセクシュアリティが劣ったあり方ではなく、単に異なるあり方なのだと承認することが最重要だ。さらに、エースであっても単に言うだけでは不十分だ。自分がアセクシュアルであるかどうか決められるよう、また、アセクシュアルな人生の楽しみについて学べるよう、積極的に奨励されるべきだ。そうしてからこそ、探求はさらなる自由に行き着く。(224ページ)

「フツー」である必要なんてないとみんなに認めさせることだーーー必要なのはただ、私たちが居心地よく感じられるものと、私たちが自分の身体と語りと人生で何をしたいか決める能力だ。真の性解放とは、多くの選択ーーー永遠にセックスなし、一日に三回セックス、そしてその中間にあるすべてのことーーーを持てることだ。(227ページ)

エースは知っている。セックスが、ある関係が恋愛的かどうかを決める分割線につねになるわけではないのだと。(中略)恋愛的な愛の定義について問うことは、エースにとっては愛と恋愛について予想だにされてこなかった方法で考えるための出発点だ。友情と恋愛を超えた新しい明白なカテゴリーを考えることに始まり、恋愛的な愛が何にも増して価値ある愛の典型だとは見なされない世界を作る機会(法的、社会的、さらにはもっといろいろな機会)まで考えていくのだ。(234ページ)

その1の記事にわたしは、エースの人はどうしたいの?一度世界を(社会を)壊したいの?と書いたけど、どうやらそうでは(過激では)なさそうだ。

QPP クィアプラトニック・パートナー
「友人」と「恋愛パートナー」の間の社会的間隙を記すのに利用可能な数少ない呼び名の一つ

例に挙げられている人はアセクシュアルの女性(既婚)とアロマンティックの独身男性の関係。新しい関係性。ポリアモリーとは違うみたい。

「恋愛的」や「プラトニック」(もしくは「友人」や「パートナー」)といったラベルを活動や期待の指針にするかわりに、欲望それ自体を活動や期待の指針にすることは可能だ。指示を与えてくれるラベルに頼るよりも効果的なのは、それをすっ飛ばして、私たちが欲するものーーー時間、触れ合い、献身などなどといった、デイヴィッド・ジェイが書いたようなことをめぐってーーーを直接求めることだ。それらを欲望することで、これら二つのカテゴリーがどんなものであるべきかという頑迷な考えに混乱が生じるかどうかなんて、どうでもよいのだ。(261ページ)

ここを読んでわたしの考えが保守的、おそらく著者の言葉で言うと根深い「強制的異性愛」者の「頑迷」なのだろうな。
だって社会が混乱してしまうじゃん、と戸惑ってしまった
自分のしたいよう気持ちに忠実に生きようとしている人々?

日本の例だと、吉屋信子描くいわゆる「エス」は?あー、でも違うか。

わたしはロマンティック・アセクシュアル
わからない、考えるはなから逃げていく。
ジェンダーアイデンティティはわからなくても、もういいのかな。

人生は様々な形を取りうるし、様々に見える。(287ページ)

302ページまで読みました。
もう色々と限界で末期なのかも、異性愛で現状の結婚制度は社会的に。

続きます。